前回はこちら【9社目】
88社に履歴書を送り、こぎつけた面接9社目にして、やっとで1次面接を通過することになった。
今回はついに10社目の面接だ。9社目の結果を知るのはこの面接のあとのことになる。
10社目ともなると緊張もなくなってくるが、いい加減どこか通ってくれと思いながら。
嫉妬なんてない、わけがない
落とされた。
結果から言うと、10社目も落とされた。10社目もこれまでと変わらず面接の手応えからして、もう落とされたんだろうと分かった。肩を落とすことすらない。
いやそれは嘘。やっぱり何度目でも落とされるのは辛い。自分は必要ないと突きつけられているような気がするから。
実際のところはそんなことはなくて、相性とかタイミングとかも重要で、僕自身に価値がないというのは言い過ぎている。痛い被害妄想だ。
しかし、その最中にいると冷静ではいられないもので、あれやこれやと良くない考えが浮かんでは消え、浮かんでは消えと思考を巡らせている。
なぜもっと価値のある生き方をしてこなかったのか
自分は悪くない環境のせいだとか
どうして自分ばかりとか。
自分自身や周囲の環境だとか社会とかに攻撃の矛先を変えては力なく突き刺す。
まあ、でもこれもいつも通り。
いい加減面接の失敗談も書くことがなくなってきたので、今回はそんな面接直後の出来事を書いていくことにする。
またひとり堕ちる
今回はまた都心部で対面の面接だった。WEB面接を繰り返していたので、対面は久しぶりだった。雨が強く降っていて、スラックスの裾が濡れている。肌に張り付く感覚が気持ち悪い。
WEB面接を繰り返すことで場数を踏んでいたし、対面なら当意即妙に受け答えできる自信もあった。だからこそ、うまくいかなかったことにひどくダメージを受けた。車の多い通りから1本入ったところに会社があったので、天候のせいもあるが薄暗い通りだ。
平日の昼間だが、観光地にも近いので人通りはそれなりにあった。傘がぶつからないように気をつけながら来た道を戻っていく。都心部まで出てくることは僕にとっては珍しい。人が多いところは苦手だし、これと言って用事もないからだ。
偶然にも日程があったので、ここまで来たついでに、知人と食事にいくことにしていた。約束の時間まではかなり余裕がある、特に用事もないが、何もしていないと無駄なことばかりを考えてしまう。
そう思って、適当にあたりを散策することにした。土地勘のないところを散歩するのは好きだった。自分のことを誰も知らない土地では誰かに遭遇してしまう心配もない。大手を振って歩けるというものだ。いや、なにも後ろめたいことはないのだけれど。
目的地はないけど、あたりを散策してみる。繁華街のエリアに差し掛かかったとき、ひときわ目立つ格好でビラ配りをしている人がいた。
彼女のエリア
いわゆるメイド服のようなものを着ている若い女性。メイドカフェの店員さんだろうか。はじめはその人が目についた。よく見ると同じような服装の人が2、3人でビラ配りをしていた。
メイドさんも大変なんだなぁなどと思った。通りがかりなので徐々に近づくことになる。目の前を通りがかるとき、その人は同じように僕にもビラを渡してきた。
特に断る理由もないので、ビラを受け取る。
あとからわかるが、それはメイドカフェの店員さんではなくて、いわゆる地下アイドルの人だった。
ビラを貰った直後にまじまじとそれに目を通す時間はなかったが、その人は僕に向かって声をかけてくれた。
「受け取ってくれてありがとう!また会おうね!」
びっくりした。まさかそんなことを言われるとは思っていなかったからだ。それはそうだろう。ただチラシを受け取っただけで、なにか言葉をかけられることの方が少ないはずだ。
とっさのことで僕は返す言葉が出てこなかった。いや別になにも返さなくてもいいんだろうけれど。なにか声をかけられたのなら、なにか返さなきゃと思ってしまう。
たぶん言葉を返すとしたら「頑張ってください」とかが正解だろう。もしくは「どうも」なんて言いながら会釈でもいいかもしれない。
でもとっさにそんなに気の利いたことは言えないし、かといって何も言わずにその場を離れることはできない、僕の性分として。
だから結局ぼくは「へ、へへへ」とにやにやしながら照れ笑いのようなものを浮かべて、すごすごとその場を去った。
一番気持ち悪い方法だった!!
誰かに愛されたことも
なにやってもうまく行かないと考えて、絶望の淵にいたぼくからするとそのことがとても嬉しかった。誰からも必要とされていないという錯覚に陥っていたからだ。
そんな僕がただチラシを受け取るだけで感謝されるなんて、思いもしなかった。だからその分衝撃は大きかった。そう普段ならクールに返せていたんだ、きっと。
ずっとアイドルにハマる人の気持ちが分からなかった。なぜ大切なお金をつぎ込んで、そこまでアイドルに入れ込むのだろうと思っていた。なにか見返りがあるわけでもないのに、と。
でもその時に少し分かった気がする。見返りがないんじゃない、すでに与えられているんだ。
そこに存在して頑張っている。
それを応援させてくれている
そうして元気をもらっている。
すでにファンとして与えられているんだ。お金を払ったりするのは、その恩返しだったりするのだろう。
僕はその場を離れたあと、もらったチラシをまじまじと見た。ライブの告知だった「このあとライブやるから来てね!」ということらしい。
このあとの予定がなければ行っていたかもしれない。
お金を払うことでなにか見返りを求めたり、何かを得るという考え自体が間違っていたのかもしれない。
すでに受け取っているんだ、報酬は。すでに認められて与えられている。自分という存在を肯定されている。必要とされていること自体がすでに報酬だったんだ。
順番が逆だったんだ。
何が言いたいのかというと、それ以外の人間関係とかでも一緒じゃないかということ。ひいては仕事でもそれは同じかもしれないということ。
お金を与えられたから仕事するわけではない。なにか仕事をしたことの報酬としてお金がもらえるものだ。これは当然のことかもしれない。
いつかきっと全部手に入れる
じゃあ、転職活動においてはどうだろうか。ぼくはなにかを与えているのか。先手をとるんだ。なにか与えられれば相応の仕事をしますよというスタンスでは、半歩出遅れている。
与えられる前に与えるんだ。受け取る前に。
地下アイドルの彼女のように、ただ感謝をするだけでも与えられるものはある。心は動かせる。
いつだって人間関係はそうやってできている。待っているだけでは与えられない。なにもしないままで与えられないことを嘆いているのはあまりに滑稽だ。
袖擦り合うその瞬間、その刹那を逃さないように与えなければならない。
かといって彼女が今後成功を手にするかはわからないし、そうしなくても成功するかもしれないけれど。少なくとも僕にとっては強く感動をもたらしたことはひとつの事実だ。応援しています。
与えられる側でいるままでは何も手に入れられない。
知りたくないとこは見せずに
それならば僕は一体、なにを与えられるだろうか。
自分のことばかりになっていないか。相手は何を言いたいのか、言わせたいのか、聞きたくないのか。言いたいことを言う、言いいたくないことを言わない。聞きたくないことを聞かせない。それがもう与えることになるかもしれない。
楽しませることまではできなくとも、我が我がと話を続けるだけでは、きっとなにも与えられないのだろう。
人によっては見返りを求めず与えるということは、もしかすると愛とか呼ぶかもしれない。あまりに大げさな言葉になるけれど、ただ与え続ける。ただ雨が降るように。
結局どこまでいっても人の心を動かすのは「愛!」とか「勇気!」とかそういう少年ジャンプ的ななにかだ。
改めて言葉にすればどこまでもありきたりで、もう聞き飽きたことばかり。
そんなこと言われなくても分かっているよと言いたくなるけれど。いつだって忘れがちで、本当の部分を体現することは難しい。
与えられないから何も持っていないなんて、そんなことはない。
言葉も愛も無限だ。足りなくなることはない。
あれもない、これもない
聞いたことがある。もしなにかがうまくいかないなら、いつだって足りない足りないという「欠乏マインド」に支配されている、と。
いつだって心は満ち足りていて、いつだって誰かに与え続ける。そうやって満ち足りた「充足マインド」が成功に導くことだと。そんな話を思い出した。
人は「心」だから。これまでの成果と数字とかはもちろん大事だけど。人間の行動原理は感情によるところが大きいと聞く。
僕が「与えられる人」になれば、もっとうまくいくのかもしれない。
これを書いている今も、僕自身はなにも持っていないと思っている。それならば磨くしかない。刃を研ぎ続ければ、付け焼き刃もいつかは伝家の宝刀だろう。
結果
冒頭で書いたとおり、10社目の面接も見事に落とされた。
それと同時に9社目の面接の結果も知らされた。初めて面接に通ったと。
エージェントさんが「やりましたね!」「ようやくですね!」と大仰に喜んでくれていた。
その言葉を聞きながら、いやいや本当に大丈夫なのか。人手不足が解消されず猫の手も借りたいブラック企業何じゃないかと勘ぐってみる。
それでもやっとでひとつ面接が通ったという事実には万感たる思いが湧いてくる。
11社目に続く
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